暑くなってきましたね。映画の話①パッチギ
みなさんこんばんは。ぱらまるさんです。
コロナ第二波が心配される中、いかがお過ごしでしょうか。
ぱらまるさんはわりと引きこもりながら生活しています。
「パッチギ」について、おちのない話
ネットフリックスでここ数日、「観たことがある気がするけどほとんど覚えていない(or最後までは観なかった)映画」を見ているので、それについて書くことにする。
一つ目は「パッチギ」である。
日本人の高校生と、在日コリアンの高校生らを描いた映画である。
ぱらまるさんは大学生の頃、少しだけ韓国語(朝鮮語)を勉強した。
とは言っても「チョヌンイルボンサラミエヨ(私は日本人です)」「チョンマルコマウォ(本当にありがとうございます)」「カチガヨ(一緒に行きましょう)」「チャルモッケッスムニダ(いただきます)」くらいしか覚えていない。
それよりもずっと前、小学生くらいの頃、おそらく映画が公開された翌年のテレビ放送で、この映画を観たことをぼんやりと覚えている。
いや、違った。今調べたら、2005年公開ということだったので、中学生か高校生くらいの頃だ。記憶というのは曖昧である。
内容については血がダラダラ出ていたことくらいしか覚えていなかった。とりあえずガンガンテレビを流しておく家庭に育ったので、あまり集中して見ていたわけではない。当時は映画を理解するのに十分な知識もなかった。
15年を経た今この映画を観ると、歴史的な背景について理解できるようになったこともあり、特に最後の「イムジン河」を歌うシーンは素晴らしいと思った。
もう一ついいなと思ったのは、主人公(日本人)の恋の相手キョンジャの兄、アンソンである。イケメンで、日本語と朝鮮語をないまぜにしゃべる、そして喧嘩っ早い様子が格好いいと思った。
しかし、考えさせられたことがある。
なにしろぱらまるさんは役者の顔と名前を覚えるのが苦手なのだが、二度目のパッチギで一番驚いたのは、エンドロールでアンソン役が高岡蒼佑だと知ったことである。
高岡蒼佑について、知っていることは二つ。
一つ目は、宮崎あおいの元旦那であること。
(ここには記さないが)結構ギョッとする発言をした人物と、パッチギのアンソンとは、どうしても頭の中で重ならない。そして、ぱらまるさんが二度目のパッチギを観た翌日に、高岡蒼佑が俳優引退を宣言したのは、ただの偶然である。
ぱらまるさん、生きています
みなさんお久しぶりです。ぱらまるさんです。
しばらく(というかかなり)更新が滞ってしまい大変申し訳ない。
なんとブログを書くのは7か月ぶりである。
7か月がほんの短い期間と感じるのは、ぱらまるさんも年をとったということだ。
これからはなるべく毎日記事を書きたいと思っている。
このブログはそもそも「無職であるぱらまるさんが、面白おかしく生き延びる」をテーマに始まったものであった。
そのぱらまるさんがなぜ7か月もブログを書けなかったのかというと、なんと仕事を始めてしまったのだ。
これはある種のアイデンティティクライシスだ。無職であることにぱらまるさんの意義があったのに、労働などというものの後塵を拝することになってしまったのだ。
このブログを見ている人も失望していることだろう。
「なーんだ、働かなくても生きていける方法を知ろうと思っていたのに、それならこんなブログ読んでも意味ないじゃん」と思っていることだろう。
申し訳ない。
これからは「無職のぱらまるさんダイアリー」の代わりに「てきと~に働くぱらまるさんダイアリー」をお届けしていくので楽しみにしていてほしい。
時節柄みなさまお気を付けくださいませ。
目指せ! 自給自足
ぱらまるさんには夢がある。
それは、いつの日か、自給自足生活を実現することである。
現代において、都会に住む者がそれを行うことは難しいかもしれない。
育てるコストに比べれば、時間的にも費用面でも買ってしまう方が賢いかもしれない。
しかし、人類の歴史の上ではむしろ自給自足が当たり前であった。
であるならば、ぱらまるさんが自給自足生活を営むことは不可能ではないはずだ。
食の安全も気になる今日この頃である。
わずかではあるが、野菜の栽培にすでに着手している。
今夏取り組んだ作物は、トマト、大葉、ししとうである。
初心者でも育てやすい夏野菜であることもあり、多くの実をつけてくれた。
目下の関心事は、主食の自給である。
先日、初めてパンを焼いた。
小麦粉など原材料は買っているのだから自給自足とは言えないが、まあそれはいい。
ぱらまるさんはパン屋で働くことを真剣に検討していたほどパンが好きである。
もちろんお米も好きだが、パンが好きなのだ。
なぜなら、パンはいろんな種類があって、楽しいから。
あと、ふわふわだったりかりかりだったりして、パンを食べるとうれしくなる。
これまでパンは当然買うものだと思っていた。
しかしまあ暇なので、パンでも作ろうか、という気になったのである。
みなさんはパンを焼いたことがあるだろうか。
粉をまぜたり、こねたり、丸めたりの工程は、結構楽しい。
粘土遊びをしているような感覚であり、本当にこれでパンができるのかな、と思う。
半信半疑で焼き上がりを待つと、これがまあおいしいのである。
これからも時間が許せばパンを焼く予定である。
神さまの話
最近、神さまについて考える機会があった。
ぱらまるさんは日本人にありがちな「一応、仏教徒ですけど、ね(海外で聞かれたとき)」な感じの人間である。
神さまを信じるか否か。
ぱらまるさんは、正直よく分からない。
神さまに祈ったことはあるけれど、神さまというものがいまいちよく分からない。
神さまがいたらいいな、とは思う。そっちの方が楽しそうである。
ただ、神さまが存在していないとしたら「ま、しょうがないか」とは思う。
神さまは本当に存在しているのだろうか?
神よ、なぜ沈黙しておられるのですか
遠藤周作の『沈黙』を映画化した『サイレンス』を以前劇場で観た。
師が日本での布教活動中に棄教したという話を聞き、それを信じられず、ポルトガルから江戸時代の長崎へ向かったイエズス会の若き神父の物語だ。
残虐なシーンが多く、のほほん映画が好きなぱらまるさんには怖かった。
BGMがないのが、怖い。
救いがない。
でも、いい映画であった。
信仰を守ろうとする人々が、次々と目の前で殺されていく。
自らも、拷問に遭う。
主人公の神父は問う、
「神よ、なぜ沈黙しておられるのですか」と。
「今この瞬間に、私は神を感じる」
ぱらまるさんは『ルワンダの涙』(原題:"Shooting Dogs")という映画が気に入っている。
ルワンダものとしては『ホテル・ルワンダ』の方が有名だが、ぱらまるさんは圧倒的に『ルワンダの涙』派である。
ヘイト飛び交う現代の日本においてこそ、ぜひ見ていただきたい映画である。
1994年のルワンダ虐殺がテーマだ。
エンドロールを見れば分かるが、この映画には、実際に殺されかけたり、家族を殺されたり、レイプされたりした人たちが映画製作に関わったり、実際に出演したりしている。
この映画で起きたことは、実際に25年前に起きたことだ。
映画の終盤、国連軍は撤退を決める。それは、そうすることで、大勢が殺されることが分かっていながらの決断である。
主人公の青年、イギリス人のジョーは問う。
神はなぜ沈黙するのかと。
極限の状態で、クリストファー神父は答える。
この瞬間、これまでになく、近く深く、神の存在を感じると。
そして、神はこの人たち(殺されゆくルワンダの人々)とともにある、と。
神さまを信じたい
ぱらまるさんは、キリスト教の教会やモスク、シナゴーグを訪ねる中で、神を信じて生きることの素晴らしさを感じてきた。
神さまを信じると、生きることが楽になると思う。
でもやはり、思ってしまう。
神さまがいるのなら、こんなにひどいことを、なぜ許しているのだろう?
まず、みんながSNSをやめればいい。そして、サウナに行って、小鳥を飼えばいいと思います
ブログの下書きばかりがたまって、すっかり更新していなかった。
ぱらまるさんは相変わらず無職だが、元気である。
ブログのリハビリとして、素敵な言葉を見つけたので紹介しよう。
ロストジェネレーション
ぱらまるさんは前職では正社員だった。
ぱらまるさんの新卒時の就職活動は、超売り手市場の現在ほど楽ではなかったが、最悪ではなかった。
バブル崩壊後の1990年代から2000年代前半にかけての就職氷河期を経験した世代は、ロストジェネレーションと呼ばれ、雇用環境の悪化に振り回された人たちが多い。
確かに、前の職場では現在の40歳前後の社員はとても少なかった。その代わり、彼らはとびっきり優秀だった。
彼らの後ろにいた、求めても求めても得られなかった人たちを思う。
比べない生き方
壇蜜さんという、グラビアアイドルや女優など多彩な活動をしている女性がいる。
名前の「壇」は仏壇を、「蜜」はお供え物を表すらしい。
セクシーで素敵な彼女も、現在38歳、ロスジェネ世代である。
彼女がロスジェネとしての自分を語った、次の記事をぜひ読んでほしい。
https://digital.asahi.com/articles/ASM5Y7KSYM5YUTIL07K.html?iref=comtop_8_01
同世代に向けた彼女のメッセージが
「まず、みんながSNSをやめればいい。そして、サウナに行って、小鳥を飼えばいいと思います」というものだ。
とてもよいと思う。
SNSは楽しいし、便利だ。
でも、SNSは時間を奪う。それに、ぱらまるさんの場合は負の感情を生み出すことが多い。
壇蜜さんのこの言葉を見た瞬間、ぱらまるさんはインスタグラムとツイッターのアプリを消した。
ついつい見てしまう野球アプリも消した。
あとは、サウナに行ってから小鳥を飼う予定だ。
ぱらまるさん、仕事を探す
無職はつらいよ
ぱらまるさんは1年ほど前から無職だ。
無職は気楽でいいよな、と思うかもしれない。
確かに、朝起きなくても怒られないし、毎日家の掃除ができるし、だらだらネットを見ながらアイスを食べるなんてこともできる。
率直に申し上げて、とても楽しい。
社畜として朝から夜まで働いていたころに比べれば、なんともパラダイスな暮らしである。
しかし、当然ながら無職のお気楽ライフには犠牲も伴う。
そう、何をするにも金がないのである。
そろそろぱらまるさんも職を探さねばならない。
私に向いている仕事はないかなあ
日本でもようやく新卒一括採用が見直され始めている。大卒の若者が、40年以上働く場を見定めなければならないというのは無茶な話である。
以前、上越教育大学の赤坂真二先生のお話を拝聴した際に、このようなことをおっしゃっていた。
「『他者への貢献は自らに有用である』と感じる人間を育てることが教育の目的である」
ぱらまるさんはこれに同意する。
学校の存在意義は、大学受験に必要な知識を身につけることでも、国家の駒を育成することでもないはずだ。(フィンランドの教育政策の理念「良き納税者を育てる」には賛同する。)
特に恵まれた環境で育ち教育を受けてきた者には、「ノブレス・オブリージュ」と言われるように社会への貢献義務がある。
ぱらまるさんは社会に貢献したいが、ビル=ゲイツでもウォーレン=バフェットでもないので、資産を慈善団体に何億ドルも寄付することはできない。
なので、社会貢献というと仕事が頭に思い浮かぶ。
だから、こう思うのである。
「私の能力・適性をうまく活かせて、世の中の役に立つ仕事はないかなあ。」
「いいから黙って働け」
しかし、「その人に適した職業は何か」という問いにこだわりすぎると、ぱらまるさんのように迷宮に入り込んでしまう。
養老孟司さんの仕事観について、デイリー新潮で次のような記事があった。(https://www.dailyshincho.jp/article/2019/05170650/?all=1)
街中でスーツ姿の就活生たちが見かけられる機会が増えてきた。着慣れないスーツを着た彼ら、彼女たちの表情には緊張感が漂う。
就職を真剣に考え始めたとき、若者たちが悩むのは「自分には何が合っているのだろうか」「自分は何をしたいのだろうか」ということだろう。
実際の面接では「御社が第1志望です」と言うとしても、本当にどんな仕事をやりたいのか、明確なヴィジョンを持っている人ばかりではない。また、そこに適性があるのかもわからない。
この問題を真剣に考えだすと、かえって就職は難しくなる。「自分に本当にあった仕事」かどうかを判断することは極めて困難だからである。
『バカの壁』で知られる養老孟司さんは、著書『超バカの壁』の中で、こうした若者の悩みに対して、独自の見解を披露している。一言で言えば、仕事とは「社会に空いた穴」なのだという。
「就活の壁」に悩む若者も、こんな考え方を知れば、少し気が楽になるかもしれない。「自分に合った仕事」を探している人たちへの疑問を示しながら、養老さん流の仕事論を述べた部分を抜粋して紹介しよう(以下、『超バカの壁』より)。
***
どうも現状に満足しておらず、何かを求めている人が多いらしい。それで調査をすると、働かないのは「自分に合った仕事を探しているから」という理由を挙げる人が一番多いという。
これがおかしい。20歳やそこらで自分なんかわかるはずがありません。中身は、空っぽなのです。
仕事というのは、社会に空いた穴です。道に穴が空いていた。そのまま放っておくとみんなが転んで困るから、そこを埋めてみる。ともかく目の前の穴を埋める。それが仕事というものであって、自分に合った穴が空いているはずだなんて、ふざけたことを考えるんじゃない、と言いたくなります。
(中略)
あとは目の前の穴を埋めていれば給料をくれる。仕事とはそもそもそういうものだと思っていれば、「自分に合った仕事」などという馬鹿な考え方をする必要もないはずです。NHKの「プロジェクトX」に登場するサラリーマンも、入社当初から大志を抱いていた人ばかりではないでしょう。
合うとか合わないとかいうよりも大切なのは、いったん引き受けたら半端仕事をしてはいけないということです。一から十までやらなくてはいけない。それをやっていくうちに自分の考えが変わっていく。自分自身が育っていく。そういうふうに仕事をやりなさいよということが結論です。
英会話スクールに行ってみた
もしも英語が喋れたら
ぱらまるさんのコンプレックスの一つが英語である。
そう、ぱらまるさんは英語が苦手だ。
ぱらまるさんのように、そこそこ真面目に英語を勉強してきて、英検とTOEICでそこそこのスコアを持っているにも関わらず、英語が話せないと悩んでいる人は多いのではないだろうか。
「日本の英語教育ガー」とかそういうことを言うつもりはない。
むしろ、小学校の教員が長時間労働に苦しむ中で小学校の英語教育が本格化し、大学受験英語が〇ネッセの食いものとなりつつある現状の方を深く憂慮している。
おそらく、問題は教育の方にではなく、受動的な学習者の方にあるのだろう。
英会話の体験レッスン
さて、ぱらまるさんは無職で時間はあるがお金がない。
だから、電話の吊り広告に出ているような、ビジネスマンが通う英会話教室は無理である。
なので、安い英会話教室に行ってみた。
ワンコイングリッシュという、「わんこ?」「ワンコイン?」と一瞬戸惑うネーミングだが、まあそれはいい。
レッスン一回あたり500円という破格の値段設定である。
(500円というのはグループレッスンであり、プライベートレッスンは3000円くらいかかる。それでも安い方だ。あと、月ごとのレッスン費用以外に2000円かかる。)
早速体験レッスンに行ってみた。
ぱらまるさんはビビりなので当然プライベートレッスンだ。
もう人間関係の出来上がっているグループレッスンに加わり、”Hi”などと挨拶する度胸はない。
おどおどしながら教室に入り受付を済ませ、”Hi”という講師についていく。
講師はフィリピン人女性だ。
ワンコイングリッシュは、日本人が崇拝するアメリカン・ブリティッシュイングリッシュにはこだわらず、様々な国籍の講師がいる。イイネ!
"How are you?"と言われたので”I'm fine thank you, and you?”と必死に言うと「学校みたい」と苦笑いされた。
自己紹介したり、発音をチェックしてもらったり、テキストに沿って話したりした。
案の定、”Ah...”とか"Oh..."とか"I see."とかしか出てこないぱらまるさんであったが、まあなんとか一時間の体験レッスンを乗り切った。
とりあえず流れで入会してしまった。
ぱらまるさんが英語コンプレックスを脱出する日は近い。Maybeね。