ぱらまるさんのものぐるダイアリー

元無職のぱらまるさんがいろいろなことをしゃべります。

働くこと

仕事

ぱらまるさんは仕事を探している。

 

ご存知のようにぱらまるさんは無職だ。

高等遊民なのかこのやろーと思われたかもしれないが、そうではない。

経済的には余裕はない。むしろピンチである。

 

銀行の残高は増えないのに毎日買い物しているという事実に、毎日驚いている。

無職でヒマだから始めたブログだが、いつまでも無職でいるわけにはいかない。

 

さて、仕事とは、働くとはどういうものであろうか。

 

ぱらまるさんが子どもの頃から、周りの大人たちの多くは働いていた。

もちろん夫が主な稼ぎ手となり妻が家庭での諸々を担うというケースもあったが(その逆は一組しか知らない)、そのような女性たちももちろん家の中で働いているわけである。

 

もちろん様々な事情があり働くことができない人は世の中に大勢いる。

働く必要がないため働かない人もいる。

 

それでも、日本国憲法の国民の義務の一つに「勤労」があるように、働くことは現代の私たちにとっての「当たり前」の一つのようである。

 

働くことは人間の本質か?

人間の定義に「ホモ・サピエンス」がある。

これは人間の「考える」という性質に注目した言葉である。

 

同様に、「作る人」という意味の「ホモ・ファーベル」や、「遊ぶ人」という意味の「ホモ・ルーデンス」という言葉もある。(「ホモ・シンボリクス」という用語もあるそうだ、初めて聞いた。)

 

確かに人間は考え、作り、遊ぶ。(ほかの動物もやってる気がするけど……。)

 

だが、「働く」ことは、もしかしたら人間の本質ではないのかもしれない。

 

古代・中世における「労働」 

アテネ市民(男性)は日がな一日議論を戦わせていた。

政治参加も市民の重要な役割であった。

彼らには働いているヒマなんかない。

古代ギリシャでは、働くことは奴隷の役割だった。

 

中世ヨーロッパでは、ベネディクト派のモンテ=カシノ修道院で「祈り、働け」がモットーとされた。

ただしそれは「清貧・貞潔服従」の厳格な戒律のもとにあったので、金を儲けるための労働が正当化されていたわけではない。

 

プロテスタントにおける「労働」

労働観について、大きく様子が変わってくるのは近世になってからだ。

ルターに始まる宗教改革では、旧来のカトリックに対する批判から、聖書主義・万人司祭主義のプロテスタントが誕生した。

宗教改革のさきがけを担ったルターの活動は主に現在のドイツにおいてであったが、時をほぼ同じくしてスイスに登場したのがカルヴァンである。

のちにカルヴァンの思想を支持する人々はカルヴァン派と呼ばれ、イギリスではピューリタンスコットランドではプレスビテリアン、フランスではユグノー、オランダではゴイセンと呼ばれるようになる。つまり、ヨーロッパのあちこちに浸透したということだ。

 

カルヴァンの教えで注目すべきは「予定説」である。

「予定説」とは、神は全能であるから、救う者とそうでない者とを予め決めており、それが覆ることはないというものである。

 

そもそもルターによる宗教改革の発端となったのは、教会が発行していた贖宥状であり、これを購入すれば罪が許されるというものだった。

つまり、「金を払えば天国に行ける」というわけだ。それを糾弾したのがルターの「九十五か条の論題」である。

 

確かに、贖宥状で罪が許されるのはちょっとさすがにないだろう。

でも、カルヴァンの思想にはちょっと驚く。

 

救済される者がもうすでに決まっているのなら、どんなに人間が善行を積んでも、祈りを捧げても、地獄行きが決まっていたのなら、その運命には抗えないことになる。

自分が救済に値する者として神に選ばれているか、そうでないかは、無力な人間にはもちろん分からない。(司祭に神と人間との間のとりなしの力を認めるカトリシズムと異なり、プロテスタンティズムでは聖職者の特権は否定される。それまでのカトリックのように、司祭に「私はこんな罪を犯しました」と懺悔して司祭が「大丈夫、神はお許しになった」なんてことができなくなるわけだ。)

自分が天国に行けるかどうか分からない。キリスト教徒にとっては恐怖である。

 

だからこそ、カルヴァンの「職業召命観」が効いてくる。

「職業とは神が人間に与えた天職(calling)である。だから、禁欲的に職業に励むことこそが神の栄光の実現につながる。」

 

神は予め救う者とそうでない者とを決めている。

だけれども、こんなに勤勉に働いている自分が選ばれていないわけがない。

懸命に職業に励むことが、「大丈夫、自分は選ばれている」と信じることにつながる。

 

そして、カルヴァンは、その結果としての利潤の蓄積を否定しない。

 

 

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

なぜ長々とカルヴァン派の話をしたかというと、それこそ今の私たちの生き方に大きくリンクしているからである。

恥ずかしながらまだぱらまるさんは読んでいないが、19~20世紀のドイツの経済学者マックス=ウェーバーの著作に『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』がある。

 

資本主義が発展したのは、イギリスやアメリカ、オランダなどカルヴァン派が浸透した地域である。

前述したように、プロテスタンティズムでは職業に励み利潤を得ることが肯定される。

金儲けに正当性が与えられたからこそ、人々は勤勉に、合理的に働き、その結果資本主義が発展した。

多分、こんな感じの内容だったと思う。

 

 

だが、このような解釈も可能だろうか。

 

予定説では、自分が救われるのかどうか分からない。

当然、不安になる。

その不安を打ち消すには、神が与えた職業に打ち込むしかない。

こんなに一生懸命やっているんだから、自分が選ばれていないわけがない。

頑張っていないと不安になる。

頑張ることが自己目的化し、無限にそれを繰り返す。

 

利潤を得ることを目的とする。

利潤を得た結果の蓄財をもとに、またビジネスにつなげる。それを繰り返す。

その結果、資本を無限に増殖させることを目的とするようになる。

資本主義が誕生する。

 

 

 

おっと、自分の就活について書こうと思ったのに、話が労働についてになってしまった。

 資本主義では利潤を最大化するのが目的なので、当然コストは抑えられる。

労働者の賃金も、そのコストである。

 

無限に増殖する資本主義に飲み込まれたぱらまるさんは仕事を探している。

転職エージェントに登録して、よく分からないメールを受け取り続ける。

果たしてぱらまるさんのcallingは見つかるのであろうか。