ぱらまるさん、仕事を探す
無職はつらいよ
ぱらまるさんは1年ほど前から無職だ。
無職は気楽でいいよな、と思うかもしれない。
確かに、朝起きなくても怒られないし、毎日家の掃除ができるし、だらだらネットを見ながらアイスを食べるなんてこともできる。
率直に申し上げて、とても楽しい。
社畜として朝から夜まで働いていたころに比べれば、なんともパラダイスな暮らしである。
しかし、当然ながら無職のお気楽ライフには犠牲も伴う。
そう、何をするにも金がないのである。
そろそろぱらまるさんも職を探さねばならない。
私に向いている仕事はないかなあ
日本でもようやく新卒一括採用が見直され始めている。大卒の若者が、40年以上働く場を見定めなければならないというのは無茶な話である。
以前、上越教育大学の赤坂真二先生のお話を拝聴した際に、このようなことをおっしゃっていた。
「『他者への貢献は自らに有用である』と感じる人間を育てることが教育の目的である」
ぱらまるさんはこれに同意する。
学校の存在意義は、大学受験に必要な知識を身につけることでも、国家の駒を育成することでもないはずだ。(フィンランドの教育政策の理念「良き納税者を育てる」には賛同する。)
特に恵まれた環境で育ち教育を受けてきた者には、「ノブレス・オブリージュ」と言われるように社会への貢献義務がある。
ぱらまるさんは社会に貢献したいが、ビル=ゲイツでもウォーレン=バフェットでもないので、資産を慈善団体に何億ドルも寄付することはできない。
なので、社会貢献というと仕事が頭に思い浮かぶ。
だから、こう思うのである。
「私の能力・適性をうまく活かせて、世の中の役に立つ仕事はないかなあ。」
「いいから黙って働け」
しかし、「その人に適した職業は何か」という問いにこだわりすぎると、ぱらまるさんのように迷宮に入り込んでしまう。
養老孟司さんの仕事観について、デイリー新潮で次のような記事があった。(https://www.dailyshincho.jp/article/2019/05170650/?all=1)
街中でスーツ姿の就活生たちが見かけられる機会が増えてきた。着慣れないスーツを着た彼ら、彼女たちの表情には緊張感が漂う。
就職を真剣に考え始めたとき、若者たちが悩むのは「自分には何が合っているのだろうか」「自分は何をしたいのだろうか」ということだろう。
実際の面接では「御社が第1志望です」と言うとしても、本当にどんな仕事をやりたいのか、明確なヴィジョンを持っている人ばかりではない。また、そこに適性があるのかもわからない。
この問題を真剣に考えだすと、かえって就職は難しくなる。「自分に本当にあった仕事」かどうかを判断することは極めて困難だからである。
『バカの壁』で知られる養老孟司さんは、著書『超バカの壁』の中で、こうした若者の悩みに対して、独自の見解を披露している。一言で言えば、仕事とは「社会に空いた穴」なのだという。
「就活の壁」に悩む若者も、こんな考え方を知れば、少し気が楽になるかもしれない。「自分に合った仕事」を探している人たちへの疑問を示しながら、養老さん流の仕事論を述べた部分を抜粋して紹介しよう(以下、『超バカの壁』より)。
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どうも現状に満足しておらず、何かを求めている人が多いらしい。それで調査をすると、働かないのは「自分に合った仕事を探しているから」という理由を挙げる人が一番多いという。
これがおかしい。20歳やそこらで自分なんかわかるはずがありません。中身は、空っぽなのです。
仕事というのは、社会に空いた穴です。道に穴が空いていた。そのまま放っておくとみんなが転んで困るから、そこを埋めてみる。ともかく目の前の穴を埋める。それが仕事というものであって、自分に合った穴が空いているはずだなんて、ふざけたことを考えるんじゃない、と言いたくなります。
(中略)
あとは目の前の穴を埋めていれば給料をくれる。仕事とはそもそもそういうものだと思っていれば、「自分に合った仕事」などという馬鹿な考え方をする必要もないはずです。NHKの「プロジェクトX」に登場するサラリーマンも、入社当初から大志を抱いていた人ばかりではないでしょう。
合うとか合わないとかいうよりも大切なのは、いったん引き受けたら半端仕事をしてはいけないということです。一から十までやらなくてはいけない。それをやっていくうちに自分の考えが変わっていく。自分自身が育っていく。そういうふうに仕事をやりなさいよということが結論です。