ぱらまるさん、自然に帰る
第一次産業的生き方
ぱらまるさんは第一次産業に関心がある。
そんなことを言うと、農家や漁師のみなさんに「われなめとんのか」と怒られてしまいそうなので初めに謝っておく。
ぱらまるさんは第一次産業の苦労は知らない。ごめんなさい。
でも、とても興味があるのだ。
小学校の社会科で、第一次産業・第二次産業・第三次産業についてはみなさん習ったことだろうと思う。
第一次産業とは、自然界に直接働きかけて富を得る産業のことである。
そこで生産・収穫した原材料を加工して富を得るのが第二次産業だ。
第一次・第二次のいずれにも分類されないものが第三次産業(小売・サービスなど)と呼ばれる。
近年では、たとえば鶏を飼って卵を生産し(第一次産業)、卵からプリンをつくり(第二次産業)、それを販売する(第三次産業)ところまですべて行うことから第六次産業と呼ばれるような事業もあるそうだ。
興味深い。
ともかく、一次でも六次でもよいのだが、ぱらまるさんは自然界に直接働きかけたいのである。
ぱらまるさんは今は無職だが、かつては働いていた。
こてこての第三次産業で、人間ばかりを相手にしていた。
自然界に働きかけることなどほぼなかった。
なぜ我々は牛乳を飲むのか?
そんなぱらまるさんだが、かつて仕事の関係で長野の酪農家を訪れたことがある。
牛を飼い、乳を搾り、それを売っている人の話を聞いた。
もちろんその酪農家は第一次産業としてもうまくいっているのだが、搾乳体験や動物とのふれあいなど、観光客向けの商売で成功している様子であった。
ぱらまるさんは毎日牛乳を飲んでいるが、なぜそもそも人間が牛の乳を飲むのだろうか?
幼い赤ん坊は母の乳を飲むが、なぜ我々のようないい大人が、よりにもよって牛の乳を飲むのだろうか?
まあ栄養があるということなのだろうが、それにしても牛からしたらたまったものではない。
酪農家さんから聞いた話である。
まず当然のことながら、人間と同じく、乳を出す牛は牝牛であり、しかも出産直後である。出産後であれば当然自分の子に乳を飲ませたいに決まっているが、毎日ギュウギュウ人間様のために乳が搾られるのである。
乳が出なくなったらどうなるか。
また妊娠させられる。
そして出産し、乳を搾られ続ける。ギュウギュウ。
もう妊娠できない、乳の出なくなった母牛は、肉になる。
スーパーで売っている、安い、あまりおいしくない肉がその母牛の肉だそうだ。
人間って、極悪非道な生き物ですね。
都会の人間が自然と生きることは可能か?
さて、牛のことを考えていたら絶望的な気持ちになってきたが、牛に限った話ではない。
人間は都合のいいように自然を利用し、破壊しながら生きてきた。
もちろん里山などは人間が適度に管理することで良い状態が保たれるから、人間の介入を一切否定するわけではないが……。
とにかく、地面にコンクリートをかぶせ、そのうえで家庭菜園をやっているのだから、ぱらまるさんのやっていることは愚の骨頂である。
そう、ぱらまるさんは家庭菜園をやっている。
以前失敗したが、今年も懲りずにやっている。
プチトマトと、大葉と、シシトウを育ててている。
大葉はすでに多くの葉っぱを付けてくれているが、プチトマトとシシトウはまだまだこれからである。
パール=バックの『大地』を読んだことがあるだろうか。
随分前に読み、また読み返したいと思っているが、舞台は中国である。
貧農の王龍の話から始まり、その子、孫の三代が描かれる。
出版されたのが20世紀前半であるが、19世紀から20世紀にかけての激動の中国が、農民の視点から描かれる。
時代に翻弄されつつも、土地とともに力強く生きる中国の人々のイメージが、鮮やかに浮かび上がる。
この作品で彼女はノーベル文学賞を受賞した。
土地とともに生きること、それができたらどんなにいいだろう。
現代ではあらゆるものが商品である。
毎日のコメも野菜も金を出して買わねばならない。
自分でつくれば、当然金を払う必要はない。
無職で金のないぱらまるさんだが、自分で野菜をつくれば働く必要はないのではないだろうか。うん、きっとそうだ。
広大な中国ではなくせまい日本の都市に生きるぱらまるさんは、とりあえず貸し農園を利用してみることにした。
自分で野菜をつくり、食べることにした。
そう、もちろん金を払って、農園を借りるのだ。